「 光あれ 」 ただ、光がある
日本では古来からの八百万の神々といった表現の通り、地域などで異なった信仰がありま
すが、周知の通り明治以降の西欧文化が流れ込み、神仏習合に加え沢山の慣習が混在して
います。私が日本人であり、無宗教でありながら十字を刻むという行為もそれに由来しま
す。また、十字記号による更なるプリミティブなイメージをも喚起します。
具体的なモティーフを加えず、抽象的に画面を構成する事は例えば日本において特定のイ
コンの存在しない状態を表現し、また、私たちが祈りや願いを捧げるといった時、特定の
神や仏に限らず同時に喚起する「光」のイメージは、かのカラーフィールドペインティン
グの旗手たちがそうしたように色彩の場所を作り出す事や絵画そのものを主題たらしめる
事を実践します。
日本における崇高なもの
「芸術だけが生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを生きる事を可能なら
しめる表象に変える事ができるのである。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御
としての崇高なものと、不条理なものの嘔吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽な
ものとである」 ニーチェ
戦争や原爆投下、バブル崩壊後に生まれた私たちが実践しうる崇高とは、多種多様な社
会現象に目を向け、まさに闇を照らし出す「光」を形而上学的に探求する事ですあり、
そしてそれを芸術とならしめる事を実践し続けます。
神々を崇めた古代と戦後から3.11、そしてそれ以降、
私たち日本人が、被災者であれ、非被災者であれ、直面した1000年に一度と言われる大災害と
、それに伴う福島第一原発を巡る人災。ミレミアムと言う聞き慣れないカタカナで僕が青年時に
迎えた光溢れるはずの21世紀。しかし私が青年の頃に感じた漠然と光溢れる未来が待っている
と感じた事こそ、その世代の誰もが飽食国家で平和に暮らしてきた証しであり、既に70年に国
民全員が唱えた「人類の進歩と調和」は無惨にも崩壊して行きました。
過去を否定する事ではなく、今、40年以上たち、原発安全神話も崩れ、私たちはまた別の未来を
想像しなければならない。
神話なき世界、奇しくも電力需要が問題になる中、私は時代遅れにも形而上学的な光を描き、人々
が古来からもち続けた自然に対しての畏怖の念をクロスオーバーさせ新たな地平を探ります。
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